旧山陽道沿いのどこか懐かしい街並み。35坪の土地に建つ光と風があふれる「箱」のような家を取材しました。ゆっくりと話しはじめたご主人が取りだしたのは、なんと一台のカメラ。このカメラに込められた家づくりへの想いを語っていただきました。
「家づくり」を進めようとすると
機嫌が悪くなる…
うまく表現できない苛立ちが
ずっとありました。
僕の父は職人肌の大工です。伝統的な日本家屋を建てることに誇りとこだわりを持っています。僕が生まれ育ったのも昔ながらの日本家屋でした。その影響もあって、僕も家を建てるなら、父が人生を捧げてきた伝統的な日本家屋でなければならないと無意識に思っていたようです。
7年前、そんな父から「そろそろお前も家を持ったら?」とアドバイス。父は遠方に住んでいて施工が難しいので「自分で探して建てろ」と言ってくれて、家づくりを考えはじめました。当然、その頃は親父の好むような和風の家を意識して家づくりを考えていました。
馴染みがあるこの街に住み続けたいと思って土地を探し始めると、いい土地が見つかりました。不動産会社さんの紹介もあり、工務店の方に家の図面も引いていただきました。もちろん、純和風の家です。きっと父も気に入るだろうという、きちんとした家でした。家族もみんな喜んで、ほぼ決定直前という段階まで進んでいました。ところが、なぜか僕はだんだん気が重くなってしまったんです。元気もなくなり、仕事から家に帰ってもずっと無口に…。あまりの落ち込みように家族も心配していました。
その時は自分がなぜそんな気持ちになるかはわかりませんでしたが、後から考えると、僕は父のような純和風の家も好きな一方で、住宅にはもっと幅広い選択肢があることも雑誌などで知っていました。その家は伝統的な和風住宅で、いい設計だったと思います。でも、自分らしい家を考えるのではなく、義務感から和風の家にしたということが、自分の中でどうにも納得できなかったんだと思います。和風の家一筋で生きてきた父に対する畏敬の念、それとは違う自分らしい家づくりへの憧れ。この板挟みの想いのなかで、僕はだんだんと追いつめられていきました。結局、家族とも話し合い、家を建てることを中止することにしました。工務店の社長のお宅に菓子折りを持って「申し訳ありません」と謝りに行きました。
偶然が呼んだ?
「あの家」を建てた会社へ。
打合せの初日から意気投合しました。
数年後のある日、前回の「中止」が心にのしかかっていて「家づくり」の模索を再始動するかどうか迷っていたそんな頃、いつも通る川沿いの道で、建築中の家を見かけました。雰囲気のいいモダンな家で、通る度にデザインや空気感が気に入りました。それが太昭組さんの家でした。「斬新でいい家だけど、父はどう思うだろうか」そんな複雑な想いが脳裏をよぎりました。
しかし、そのすこし後に希望に近い土地を発見しました。その土地が偶然にも太昭組さんの建築条件付きだったんです。「あ、あの会社だ」と運命を感じました。「あの家」を建てた太昭組さんだったら、大丈夫かもしれない…。そんな藁にもすがるような想いで、太昭組さんに相談しました。
初めての打合せの日、建築士の方が来てくださりました。その建築士、迫谷さんは、偶然にも川沿いで見かけた家の建築士さんでもあったんです。ますます運命を感じました。初対面の日なのに、目の前ですぐに何枚もプランを描いてくれて、僕の要望や妻の要望、そして趣味もしっかり聞いてくれて、楽しかった思い出があります。「もう、ここしかない!」と思いました。
一台のカメラに託した想い。
そして「自分たちだけの空」が
生まれました。
ありきたりではない家にしたい。でも、なかなかうまく迫谷さんに説明できない僕は、ある日の打ち合わせで、恐る恐るニコンのカメラを取り出してお見せしました。このカメラで僕の価値観や家に対する思いが伝わるかもしれないと思ったからです。
そのカメラは、すべてがマニュアル操作のアナログカメラです。今は全自動が人気の時代ですが、僕は自分で操作することが好き。たとえ手ブレ写真でもその時の気持ちが手ブレとなって写真に表現されていることを大事にしたい。だから手ブレ補正も好きじゃない。クルマもマニュアル(ミッション)に乗っていますし、自転車で風を切るのも大好き。住まいも便利な設備がついた流行りの家にしたくない。どこのハウスメーカーが建てても同じような家にしたくない。そんな想いを込めてニコンのカメラを見せたのです。
カメラを見た迫谷さんはすぐに僕の想いを理解してくれました。便利な仕組みは使わず、できるだけシンプルな家にする。空間を大きくとり、住む人の工夫でその時々に仕切って使う。過ごす部屋を決めるのではなく季節に応じて好きな場所で過ごす。迫谷さんの洞察力で、僕の想いがだんだんと図面になっていく過程は楽しく、毎回の打ち合わせが楽しみで仕方ありませんでした。
その結果生まれたのが、箱のようなシンプルな家です。中心にある中庭も迫谷さんからの提案でした。住宅地のなかにある分譲地ですから、隣りが空き地でもいつかは家が建つ可能性がある。庭を家の真ん中に入れると、ご近所に家が建っても、また敷地が狭くても、家じゅうに光と風を入れる空間になる。庭を通して来訪者や通りの様子を感じたり、季節の変化を感じられる。家族がどの部屋に居ても気配がある。バスタブも可動式にしたので庭を見ながらお風呂に入れる。見上げる空は、ずっと変わらない「自分たちだけの空」になりました。
心の奥にあった迷いまで
解決した家づくり。
「作り手」も認めた、
独創的な家が完成しました。
太昭組さんと出会うまでの僕は、父への尊敬から生まれる伝統的日本家屋への想いと、自分の思い描く理想の家のイメージが交錯し、明確なイメージがうまく伝えられない…という状態だったと思います。でも、迷ってる僕たちの手をとって、迫谷さんが一緒に答えを探してくれた、そんな感触です。僕ら家族の性格や小さな要望まですべて理解いただいて、最後の最後まで攻めの姿勢で形にしてくれたと思います。完成した家を見ると「自分のしたかったことがすべて形になった」と感じます。妻も「私たちの好みがこうやって家として形になったおかげで、生き方がはっきりして、世間の流行が気にならなくなった」と言っています。
太昭組に決めたことを恐る恐る父に告げた時、父は一言こう言いました。「すべて建築士に任せろ」それは人生を大工に捧げた父なりの、家づくりにもがき苦しむ息子へのエールだったと思います。
家が完成した祝いの席に父を呼びました。玄関に入る前、父は打ちっぱなしの壁を長い時間触って感触を確かめていました。そして、無口な父はその日いつもより饒舌にお酒を飲んでいました。自分が息子の家を建てられなかった無念さと、腕のある建築士がそれを替わりに実現してくれた嬉しさ。きっと二つの想いがあったのでしょう。父も僕も長年の複雑な感情から解き放たれた瞬間。それがこの家のはじまりの日でした。